うぱ@エンジニアの日記

キラキラアメリカ生活

海外流出しようと思った理由

アメリカで就職した話は昔どこかで書いた気がするので、今日はどうしてわざわざ海外に住む気になったのかを書いてみようかと思います。

 

ちなみに私がアメリカで就職したストーリーはこれ 

upa-engineering.hatenablog.com

 

というわけで、私が海外に出ようと思った話をまとめてみる。

 

22歳(23歳かも)の夏

怠惰な学生生活を過ごしていた私は、大学院に入るまで特に海外を意識することもなく生きてきた。そもそもキラキラ系大学生を目指していた私が、わざわざ理系を選んだ理由は英語が圧倒的にできなかったから(英語の穴を数学と物理でどうにかするスタイルでした)である。そんな私がわざわざ海外に出ようと思うはずがない。

というわけで、特に海外については何も意識することなく大学院に進学したのが2011年4月である。たしか東日本大震災の影響で最初の1カ月は自宅待機的な感じだった。入学式も延期だか中止になったので、研究室から渡された教科書を自宅でひたすら勉強していた気がする。研究室の学生はみんな頭良さそうだし、TOEIC満点取れる人類がこの世に存在することを初めて知ったのもこの頃だった。

 

初めての国際学会

で、ふらーっと研究の真似事を始めて2-3カ月くらい経った頃だった。当時所属していた研究室は大型予算が当たって研究資金がオーバーフローしていたらしく、突然学生全員を国際学会(聴講)に送り込むという暴挙に出る。 というわけで、たいして研究もしていないのに京都でやっていたVLSI Symposiumというそれなりにレベルの高い国際学会に遊び(聴講)にいくことになった。

当時は研究を始めたばかりだったので、学会プログラムを読んでもまったくもって意味不明である。しかも英語。生まれて初めてあんなに英語を話す人類に遭遇した。Bang-bang PLLってドラゴンボールに出てきそうだねと同級生に話して笑われた記憶がある。

 

ここで少し当時の状況を説明しておくと、 当時はまだ日本企業がそれなりに半導体系の研究開発をして国際学会で発表していた時期で、日本からの論文も20%くらい(5件に1件くらい?)はあった気がする。 今思うと、瀕死の状態で毎晩レッドブル飲みながらどうにか生き残ってるみたいな感じだったのかなと思う。学生的にも電機メーカーは悪くない選択肢に見えたし、私も将来はあのどこかに就職するのかなと思っていた。例えばソニーに就職するとすごい!カッコイイ!高収入!ってなる時代だった。

 

日本企業の非人道的なプレゼン

国際学会なので、プレゼンはもちろん英語で質疑応答もある。MITのインド人は何話してるか意味不明だったけど頭良さそうだったし、台湾&韓国系の企業の人も問題なくこなしていた。

そんな中、熱気を帯びる学会会場でひときわ異彩を放っていたのが、日本企業から放たれる非人道的な英語プレゼン&質疑応答だった。原稿を読むことに集中してまったく前を見ない発表者、理解不能すぎる英語、沈黙の質疑応答。。

 

日本企業の40歳くらいのおじさん達が、幼稚園児みたいに扱われているのを見るのはなかなか厳しいものがあったし、これが私が将来行きつく姿なんだと思って絶望した。

 

まったくの素人学生から見ても日本企業と台湾・韓国企業のエンジニアに圧倒的なレベル差があることは明白だったし、ここが海外に出ることを意識しはじめた原体験でした。

 

その後

結局のところ、めぼしい日本企業は台湾・韓国企業との競争に負けてほぼ消滅してしまったので、良くも悪くも海外で就職することになってしまいました。

英語ができなかった私にモチベーションを与えてくれたあの非人道的なプレゼンにはすごく感謝しています。全ての南武線ユーザーが幸せでありますように!